第 1 章 OHDSI コミュニティ
著者:Patrick Ryan & George Hripcsak
集まることは始まりであり、共にいることは進歩であり、共に働くことが成功である。 ヘンリー・フォード
1.1 データからエビデンスへの旅
世界中のあらゆる医療現場、大学の医療センターや診療所、規制当局や医療製品メーカー、保険会社や政策センター、そしてすべての患者と医療従事者との対話の中心には共通の課題があります。過去から学んだことをどのようにして将来のより良い意思決定に生かすのかということです。
10年以上もの間、多くの人々が「患者と医療従事者が協力して医療を選択するための最善のエビデンスを生成し、適用すること、患者ケアの自然な結果として発見のプロセスを推進すること、そして医療における革新、品質、安全性、価値を確保すること」を目的とした学習型医療システムのビジョンを主張してきました(Olsen et al. 2007)。この大志の主たる要素は、日常診療の過程で収集された患者レベルのデータを分析し、リアルワールドのエビデンスを導き出し、それを医療システム全体に広めて実臨床に役立てるという、非常に魅力的な見通しに基づいています。2007年、米国医学研究所(The Institute of Medicine)のエビデンスに基づく医療に関する会議が「2020年までに、臨床判断の90%は正確かつタイムリーで最新の情報に裏付けられ、最良のエビデンスを反映したものとなる」という目標を掲げた報告書を出しました(Olsen et al. 2007)。多くの分野で目覚ましい進歩が遂げられている一方で、私たちはこうした素晴らしい目標にはまだ遠く及ばないのが現状です。
なぜでしょうか? その理由の一つとして、患者レベルのデータから信頼性の高いエビデンスを導き出すまでの道のりが困難であることが挙げられます。データからエビデンスに至るまでの明確な道筋は一つではなく、その道筋をたどるのに役立つ地図も一つではありません。実際、「データ」という概念は一つではなく、「エビデンス」という概念も一つではありません。

図 1.1: データからエビデンスへの旅
ソースシステムには、さまざまな患者レベルのデータを収集するさまざまなタイプの観察データベースがあります。これらのデータベースは、医療システム自体と同様に多様であり、異なる集団、医療環境、データ収集プロセスを反映しています。意思決定に役立つエビデンスにもさまざまな種類があり、臨床的特性、集団レベルの推定、患者レベルの予測などの分析の使用例によって分類することができます。 出発点(ソースデータ)と目的の目的地(エビデンス)とは別に、この課題はそのプロセスに必要とされる臨床、科学、技術的な能力の幅広さによってさらに複雑化しています。医療情報学を徹底的に理解する必要があります。これには、患者と医療従事者との診療現場でのやり取りから、管理システムや臨床システムを経て最終的な保存場所に至るまでのソースデータの完全な由来、データ収集や管理プロセスに関連する医療政策や行動インセンティブの一部として生じる可能性のある偏りへの理解が含まれます。臨床上の疑問を、適切な回答を得るのに適した観察研究のデザインに変換するための疫学の原則と統計的手法を習得する必要があります。何年にもわたる縦断的追跡調査で得られた何億件もの臨床の観察結果を含む、何百万人もの患者データセットに対して、計算効率の高いデータサイエンスアルゴリズムを実装し、実行する技術的能力が必要です。 また、観察データネットワークで得られた結果と他の情報源からのエビデンスを統合し、この新しい知識が医療政策や実臨床にどのような影響を与えるべきかを判断する臨床的知識も必要です。したがって、データからエビデンスを導くために必要なスキルとリソースとを備えている人物は非常にまれです。むしろ、このプロセスには、すべての利害関係者が信頼し意思決定プロセスに活用できるエビデンスを生成するために、最良のデータが最適な方法で分析されるよう、複数の個人や組織が協力することが必要となる場合がほとんどです。
1.2 観察医療アウトカムパートナーシップ(OMOP)
観察研究におけるコラボレーションの顕著な例として、観察医療アウトカムパートナーシップ(Observational Medicine Outcomes Partnership;OMOP)が挙げられます。OMOPは官民パートナーシップで、米国食品医薬品局(FDA)が主導し、米国立衛生研究所(NIH)財団が運営し、製薬会社のコンソーシアムが資金を提供しました。製薬会社は学術研究者や医療データパートナーと協力し、観察医療データを使用した積極的な医薬品安全性監視の科学を推進する研究プログラムを確立しました(Stang et al. 2010)。OMOPは、多様なステークホルダーによるガバナンス体制を確立し、真の医薬品安全性の関連性を特定し、偽陽性所見と区別するという課題に対して、さまざまな医療事務データやEHRのデータベースに適用した場合の、代替となる疫学デザインや統計的手法のパフォーマンスを実証的に検証するための一連の方法論的実験をデザインしました。
チームは集中型環境と分散型研究ネットワークの両方で、異なる観察データベースにまたがって研究を行うことの技術的な難しさを認識し、観察データの構造、内容、意味を標準化し、統計分析コードを一度作成すればすべてのデータサイトで再利用できるようにする仕組みとして、OMOP共通データモデル(CDM)を設計しました(Overhage et al. 2012)。OMOPの実験により、異なる医療現場から得られた異なるデータタイプを、異なるソースボキャブラリで表現し、施設間の連携と計算効率の高い分析を促進する方法で取り込むことができる共通データモデルと標準ボキャブラリを確立できることが実証されました。
OMOPは設立当初からオープンサイエンスのアプローチを採用し、研究デザイン、データ標準、分析コード、実証結果など、すべての成果物をパブリックドメインに置くことで透明性を高め、OMOPが実施している研究に対する信頼を構築するとともに、他者の研究目的の推進に再利用可能なコミュニティリソースを提供してきました。OMOPの当初の焦点は医薬品の安全性でしたが、OMOP CDMは、医療介入や医療制度政策の比較効果など、より広範な分析事例をサポートするために継続的に進化してきました。
OMOPは、大規模な実証実験の完了(Ryan et al. 2012, 2013)、方法論の革新(Schuemie et al. 2014)、安全性に関する意思決定のための観察データの適切な利用に役立つ知識の創出(Madigan et al. 2013; Madigan, Ryan, and Schuemie 2013)に成功しましたが、OMOPの遺産は、オープンサイエンスの原則を早期に採用し、OHDSIコミュニティの形成を促したという点で、より記憶されるかもしれません。
OMOPプロジェクトが完了し、FDAのアクティブサーベイランス活動に情報を提供するための方法論的研究という使命を果たしたとき、チームはOMOPの旅路が終わり、新たな旅路が始まったことを認識しました。OMOPの方法論的研究は、観察データから生成されるエビデンスの質を明らかに改善できる科学的ベストプラクティスに関する具体的な洞察を提供しましたが、それらのベストプラクティスの採用は遅々として進みませんでした。いくつかの障壁が特定されました。1)分析の革新よりも優先して取り組むべきであると考えられていた観察データの品質に関する根本的な懸念、2)方法論上の問題と解決策に対する概念的理解の不足、3)各自のローカル環境で独自に解決策を実行できないこと、4)これらのアプローチが各自の関心のある臨床問題に適用できるかどうかといった不確実性、などです。すべての障壁に共通する要素は、自分一人だけでは変化をもたらすために必要なすべてを持っているわけではないという感覚であり、しかし、何らかの協力的な支援があれば、すべての問題を克服できるというものでした。とはいえ、いくつかの分野でのコラボレーションが必要でした。
- オープンコミュニティのデータ標準、標準化ボキャブラリ、ETL(抽出-変換-読込)規約の確立に向けたコラボレーション。これにより、基礎となるデータ品質に対する信頼性が高まり、構造、内容、意味論の一貫性が促進され、標準化された分析が可能になります。
- 医薬品の安全性に留まらず、臨床的特性、集団レベルの推定、患者レベルの予測など、より広範なベストプラクティスを確立するための方法論的研究におけるコラボレーション。方法論的研究により実証された科学的ベストプラクティスを体系化し、研究コミュニティが容易に採用できる公開ツールとして利用可能にするためのオープンソース分析開発におけるコラボレーション。
- コミュニティ全体で関心のある重要な健康問題に対処する臨床応用に関するコラボレーション。データからエビデンスへの道のりを共にたどる。
このような洞察から、OHDSIは誕生しました。
1.3 オープンサイエンスの協働組織としてのOHDSI
Observational Health Data Sciences and Informatics(OHDSI、発音は「オデッセイ」)は、コミュニティが協力してより良い医療判断とケアを促進するエビデンスを生成することで、健康の改善を目指すオープンサイエンスのコミュニティです(George Hripcsak et al. 2015)。OHDSIは、観察医療データの適切な利用に関する科学的ベストプラクティスを確立するための方法論的研究を実施し、これらのプラクティスを一貫性があり、透明性が高く、再現可能なソリューションに体系化するオープンソースの分析ソフトウェアを開発し、臨床上の疑問に適用してエビデンスを生成し、医療政策と患者ケアの指針となることを目指しています。
1.3.3 私たちの目標
革新性: 観察研究は、革新的な恩恵を得ることができる分野です。私たちの仕事において、新しい方法論的アプローチを積極的に探求し、奨励します。
再現性: 正確で再現可能な、適切に調整されたエビデンスが健康の改善に不可欠です。
コミュニティ: 患者、医療従事者、研究者、そして私たちの活動に賛同する方など、誰もがOHDSIに積極的に参加いただけます。
コラボレーション: 私たちは協力して、コミュニティの参加者の現実的なニーズを優先し、対処するために協力して取り組んでいます。
開放性: 私たちは私たちが生み出す方法、ツール、生成されたエビデンスなど、コミュニティの成果をすべて公開し、一般にアクセスできるよう努めています。
有益性: コミュニティ内の個人や組織の権利を常に保護するよう努めています。
1.4 OHDSIの進展
OHDSIは2014年の発足以来、学術界、医療製品業界、規制当局、政府、保険者、技術提供者、医療システム、臨床医、患者など、さまざまなステークホルダーから2,500人以上のコラボレーターをオンラインフォーラムに迎え入れてきました。また、コンピュータサイエンス、疫学、統計学、生物医学情報学、医療政策、臨床科学など、さまざまな分野を代表する参加者もいます。OHDSIのコラボレーターのリストは、OHDSIのウェブサイトで閲覧できます1。 OHDSIの協力者マップ(図 1.2)は、国際的なコミュニティの広さと多様性を示しています。

図 1.2: 2019年8月現在のOHDSI協力者の地図
2019年8月現在、OHDSIは20か国以上から100以上の異なる医療データベースのデータネットワークを構築し、OMOP CDMというOHDSIが維持するオープンコミュニティデータ標準を用いた分散型ネットワークアプローチを適用することで10億件以上の患者レコードを収集しています。分散型ネットワークとは、患者レベルのデータを組織間で共有する必要がないことを意味します。代わりに、研究に関する問いはコミュニティ内の個人によって研究プロトコルの形で提起され、エビデンスを生成する分析コードが添付されます。生成されたデータは要約統計として共有され、研究に参加するパートナー間でのみ共有されます。OHDSIの分散型ネットワークを通じて、各データパートナーは患者レベルのデータの使用について完全な自主性を維持し、それぞれの機関のデータガバナンス方針を遵守し続けます。
OHDSIの開発者コミュニティは、OMOP CDMを基盤として、以下の3つの使用例をサポートする堅牢なオープンソース分析ツールのライブラリを作成しました:1)疾病の自然史、治療実態、品質向上のための臨床的特性評価;2)医療製品の安全性監視と比較効果のための因果推論法を適用した集団レベルの効果推定;3)精密医療や疾病予防のための機械学習アルゴリズムを適用する患者レベルの予測。OHDSIの開発者らは、OMOP CDMの採用、データの品質評価、OHDSIネットワーク研究の促進を支援するアプリケーションも開発しています。これらのツールには、RとPythonで作成されたバックエンドの統計パッケージや、HTMLとJavascriptで開発されたフロントエンドのウェブアプリケーションが含まれます。すべてのOHDSIツールはオープンソースであり、GitHubを通じて一般公開されています2。
OHDSIのオープンサイエンスコミュニティアプローチとオープンソースツールにより、観察研究は飛躍的に進歩しました。OHDSIネットワーク分析の初期の成果の一つとして、糖尿病、うつ病、高血圧という3つの慢性疾患の治療経路に関する調査が挙げられます。これはNational Academy of Scienceに掲載され、2億5000万人以上の患者データを対象に11のデータソースから得られた結果を分析し、それまでに観察されたことがなかった治療選択に関する地理的な違いや患者の異質性を明らかにしました(George Hripcsak et al. 2016)。OHDSIは交絡因子調整のための新しい統計的手法(Tian, Schuemie, and Suchard 2018)や因果推論のための観察的エビデンスの妥当性評価(Schuemie, Hripcsak, et al. 2018)など、複数の分野でこれらのアプローチを適用しています。てんかんの安全性監視に関する問題(Duke et al. 2017)から糖尿病の第二選択治療薬の比較効果(Vashisht et al. 2018)や、うつ病治療の安全性比較に関する大規模な集団レベルの効果推定研究(Schuemie, Ryan, et al. 2018)に至るまで、さまざまな分野で適用されています。OHDSIコミュニティは、観察医療データに機械学習アルゴリズムを適用する方法の枠組みも確立しており(Reps et al. 2018)、さまざまな治療領域で適用されています(Johnston et al. 2019; Cepeda et al. 2018; Reps, Rijnbeek, and Ryan 2019)。
1.5 OHDSIにおける協力
OHDSIはエビデンスを生成するためのコラボレーションを促進することを目的としたコミュニティです。OHDSIのコラボレーターになることにはどういう意味があるのでしょうか?もしあなたがOHDSIのミッションに賛同し、データからエビデンスを生む出すまでの過程のどこかに貢献したいと思うなら、OHDSIは最適なコミュニティです。コラボレーターには、患者レベルのデータにアクセスでき、そのデータがエビデンス生成に活用されることに興味を持つ人も含まれます。コラボレーターには、科学的ベストプラクティスを確立し、代替アプローチを評価したいという方法論者も含まれます。コラボレーターには、プログラミングスキルを活かしてコミュニティ全体が利用できるツール開発に関心を持つソフトウェア開発者も含みます。コラボレーターには、重要な公衆衛生上の疑問を持ち、それに対するエビデンスを広範な医療コミュニティに提供したいと考える臨床研究者も含まれます。コラボレーターには、この共通の公衆衛生のための目的を信じ、コミュニティが自立し、そのミッションを継続できるリソースを提供したいと思う個人や組織が含まれます。また、世界中でコミュニティ活動やトレーニングセッションを主催することも含まれます。OHDSIは専門分野やステークホルダーの所属に関わらず、共通の目的に向かった個人が協力し、それぞれが貢献することで、医療の進歩に寄与できる場となることを目指しています。この取り組みに参加したい方は第2章(「どこから始めようか」)を参照し、参加方法をご確認ください。